悟りには二つのプロセスがある。
その一つは、悟ろうという自分の「選択」である。悟りとは苦行を通してのみ得られるものではない。私自身も一時誰にも劣らないほどの辛い修練をして、つまり苦行を通して悟りに至ろうとしたことがある。しかし、それは私が悟ることの本質を知らなかったときのことだ。私は自分の歩んだ道をモデルとして掲げたくはない。
私が得た真の悟りとは、「世の中に悟ることは何もない」と分かったことである。私はすでにいつも悟りのなかにいた。私にはすべてが与えられていたし、ありのままの自分を受け入れるのが至上の悟りであった。結局のところ、悟りとはまったく常識的なことであったのだ。
悟りとは、自分自身をとりまくあらゆる生命体に、喜びと益をもたす生き方を選ぶこと。それは、とても単純な選択である。では、どうしたら他の人々や生命体のためになれるのだろうか。
そう、私たちはすでにその返答を知っている。「隣人のためにする」ことの意味を私たちは知っているのだ。他人に心を配り愛することが何であるかも知っているのである。ただ実践せずにいるだけだ。人は善良なエネルギーを持っている。誰もこの事実を否定できない。「真の自我」を受け入れ、真の愛を通して、あなたのその善良な心を表現するだけで、悟りは自然と身についてくる。
二つ目は、あなたが悟りへの道を選んだのなら、その選択を守り続けていこうとする意志と訓練である。この決心がつけば、どんな非難も障害もあなたを止めることはできない。自らの指針を立て、周りの人々が何を言おうがそれを守っていけば、天はあなたを見守ってくれるのである。天とは何だろうか。それは間違いようもない、私たちの心。心は、悟りを選択したと言う事実を大切にすることだろう。この決心を守り抜くためには、自分の欲望を自ら整理し、自分の選択そのままに真理のために生きていく鍛錬が必要である。
鍛錬を通してスピリチュアル・フィットネス(spiritual fitness)を維持することで、私たちの魂はより強くなり成熟するのである。これが悟りである。悟りとは、選択であり、鍛錬である。悟りとは行動である。そして悟りとは、現実のことである。
一指李承憲(イルチ イ・スンホン)著 『悟りの哲学』 ビジネス社出版、2006年発行、16ページより引用