「成功」でなく「完成」を求める世界へ

環境汚染や地域紛争など、地球上の問題の根底には、人間の「競争心」があります。地球と共存するよりも、他者との競争に勝つことを重視するあまり、さまざまな弊害が生まれています。

人を競争へとかりたてるのは「成功」への渇望です。成功を追い求めると、どうしても競争状態になります。自分が負けると取り分が少なくなるので、より多くを手に入れるためにトラブルが絶えません。

私は「成功」に集中する心を「完成」に移すことができれば、地球は大きく変わると考えています。完成は、成功よりも遥かに大きく高い価値です。成功を追い求めると、自然も、一人ひとりの心身も、人間同士の調和やバランスも、すべて崩れてしまいます。完成という価値を導入すれば、すべての問題が簡単に解決します。

成功を追い求める人生では、世間が望む基準通りの肩書やスキルを備えることが優先されますが、完成を求める人生では自分が追求する哲学と価値が基準になります。成功の追求は利己心や競争心を煽り立てますが、完成のための取り組みは共存と和合をもたらします。

人が成功ばかり追い求めるのは、幼虫が桑の葉をずっと食べ続けて蝶になれずにお腹が破裂して死ぬのと同じです。蝶になるためには、幼虫の頃から蝶になれると確信して桑の葉を食べ、ある時、桑の葉を食べるのを止めて繭を作り、蝶になるという過程を経なければなりません。

人間も「もっと、もっと」と言いながら息を吸い込むばかりだと、結局は皆が破滅します。これからは吸い込んだ息をしばし止めて、ゆっくり吐き出す練習をしていきましょう。

日常生活の中の悟り

脳教育者、一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は「悟りは選択である」と言います。この言葉には、悟りが厳しい修行の末に獲得するような特別なものではなく、ふだんの日常生活の中で訓練を重ねて到達できる現実的なゴールだという意味が込められています。

霊的な修練を積むために、あるいは瞑想をするために深い山のなかに入る必要ありません。確かに、ヨガ修行者や僧侶、または少数の平凡な人々のなかには禁欲的生活と苦行を積んで、最後に悟りに至ることもありますが、多くの現代人はこうした生活ができるわけではありません。

李承憲氏によると、大事なことは日常の中でも実践できる魂の鍛錬を通して、人生の究極的な問いに対する答えを探すことです。脳教育は、すべての人が悟りに至れるようにするための方法です。人類が最高の知識を得て、至高の文明を築いたとしても、大脳皮質の領域だけでは完成できません。理性と論理だけでは限界があるのです。脳幹の力を強化させることが唯一のカギであり、解決方法なのです。

李承憲氏は「人間の魂に完全なる変化をもたらす道は、悟りが大衆化し、常識になる道しかない」と言います。わずか数人が悟りに至ったとしても、社会全体が悟らなければこの世の中は変わりません。真の愛を回復した個人が集まり、悟りの文化が世界を変えるくらいの力を形成した時にこそ、人類はまばゆいほどの意識の進化を遂げるのです。

「世の中に悟ることは何もない」と分かること

悟りとは何か?――
脳教育者、一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は、悟りとは「『真我』を探すこと」だと言います。

真我とは「本当の私」です。李承憲氏によると、真我は、あらゆる人々の内面にあり、本質的に美しいものです。繭を抜け出して美しい蝶が生まれ出るようなものだといいます。

真我に出会うことは、絶対的な幸せの条件です。真我に出会うことによって得られる幸せは、「ちっぽけな自分の欲望や欲求にしばられることのない、私たちの深いところから湧き出る幸せ」(李承憲氏)です。

私たちの幸せは、森羅万象を網羅して人間が「一つ」だということを本当に知ったときに訪れます。この幸せは「絶対的」なものであり、財産の多さや、人より有名であるというような「相対的」なものではありません。

悟りを得て真我と出会うには、「選択」が必要です。自分自身をとりまくあらゆる生命体に、喜びと益をもたらす生き方を「選択」すること。それが、悟りです。

李承憲氏は自らの経験から、こうした悟りの本質に気づいたといいます。「一時誰にも劣らないほどの辛い修練をして、つまり苦行を通して悟りに至ろうとしたことがある。しかし、それは私が悟ることの本質を知らなかったときのことだ」(李承憲著『悟りの哲学』)と言います。

李承憲氏が得た真の悟りとは、「『世の中に悟ることは何もない』と分かったこと」であり、「私はすでにいつも悟りのなかにいた」と気づいたことです。

ありのままの自分を受け入れること。それが「至上の悟り」なのです。

すべては「小さな選択」から始まる

脳教育者、一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は「悟ってから何がどのように変わりましたか?」とよく聞かれるそうです。これに対して、李承憲氏は、悟りによって何かが急に大きく変わるのではないといいます。「悟りは選択です。どのように生きるのかを選択できる力が自分の中にあるという事実を認めることです」というのが、李承憲氏の答えです。

李承憲氏が悟って一番にしたのは、普段より早起きしたことです。朝早く公園に行き、出会った人々に体操を教えました。最初の生徒は脳梗塞の後遺症で身動きが不自由な人でしたが、その出会いが大きくなって、脳教育が世界に広まりました。

普段より少し早起きして何か世間に役立つようなことをするのは、とても小さな選択だし誰でもできることです。しかし、その小さな選択が李承憲氏の人生を変え、100万人以上の人々が脳教育を経験することになったのです。

多くの人びとが社会を憂い、地球を心配します。それよりはるかに多くの人々が自分の人生と社会への不満をこぼします。環境汚染のような地球規模の問題から経済的な不安や失業、教育破綻などの社会的な問題に至るまで多くのテーマが語られます。

しかし、たいていは「何かが間違っているけれど、社会全体の問題だから私が個人的にできることはない」という結論で終わります。

そしてとても自然に日常的・習慣的な自らの人生に戻ります。個人が担うには大きすぎる問題だということを口実に自分ができる「小さな選択」さえも無視してしまうのです。

でも、実際は、その小さな選択が集まって社会をヒーリングし、地球をヒーリングする「奇跡のようなこと」を作り出せます。すべては「私」の小さな選択から始まるのです。

道人への道とは

脳教育者、一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は、いろいろな人たちに「どうすれば悟れますか?」聞かれるといいます。これについて、李承憲氏はこう答えます。「悟りには方法がありません。悟る道というものはないからです」

李承憲氏によると、そもそも私たち自身と悟りの間には、距離がありません。悟りのもたらす「明るい知恵」は、「私たち自身の本来の姿」だからです。つまり、わざわざ探す必要はないのです。

悟りは、近すぎて見えないのです。水の中で泳いでいる魚が、水が水であると分からないのと同じで、私たちにとって悟りは、誰にとってもすでに与えられているものだから、見えにくくなっているのです。

李承憲氏は、そんな悟りの核心を心得て、悟りを実践している人のことを「道人」と呼びます。道人は、正直な人です。自分の中にある完全な知を自分の実体と認めて受け入れる人だからです。

何が正しいのか、どんな風に生きるべきかは、誰もが分かっているのですが、多くの人は責任を負うのがイヤで、その完全な知を自分の実体と認めることを先延ばしにしています。でも、道人はそれを受け入れています。

自分の知を認めず、知を認めてもあがいて何が正しいのかを見ようとはせず、何が正しいのか分かっても正しいことよりラクなことを選ぶ――。それは、現代人が陥りがちなワナです。

まずは「受け入れる」ことが大事です。自分の完全な知を認め、その知をもとに何が正しいのか判断し、自分が正しいと判断したことを選択する。そして、その選択に責任を持つ。それが、道人への道です。

悟りから生まれる「地球人」としての自覚

悟りとは何でしょうか?脳教育者、一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は、悟りとは「私たちの中にもとより存在しているものを発見することだ」と言います。

私たちはみんな、氏名や職業、性別、国籍、民族など様々な属性を備えています。しかし、これらは、「体に覆いかぶさっている情報に過ぎない」(李承憲氏)のであり、「私」そのものではありません。私とは魂であり、その真の姿を自分だと認めることが、李承憲氏の言う「悟り」です。

李承憲氏によれば、体・名前・人格という情報が自分ではないと分かるようになると、もうそのような情報に支配されることはなくなります。自らが主体となって情報を選択し、責任を果たそうという意識が生まれます。「自分に選択権が与えられているという事実が分かるので、自分の人生、自分の属する社会、後に地球で暮らすことになる子孫に対してまでも責任を負おうとする心を持つようになる」(李承憲氏)のです。

悟りを得た人は、固定観念から解き放たれ、自由になった目で世界を眺め、「今の世に何が必要かを判断・選択し、その必要に応じて世のためになることをするようになる」といいます。李承憲氏はそのような人のことを「天地人」と呼びます。天地人とは、自分の中で律呂を回復し、天と地と人の調和を回復した人であり、同時に「地球人」でもあります。

全人類が地球人としてのアイデンティティを持つようになれば、理念の違いは思考の多様性として受け入れることができ、宗教の違いは個人的な志向の違いに過ぎなくなります。また、民族間の文化の違いは葛藤の要因ではなく、むしろ文化的な多様さと豊かさ、包容力の源となるのです。

悟りを導く脳の再編と統合

脳教育者、一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は、世界各地の人たちから悟りについて尋ねられます。「悟りとは何?」「悟るにはどうすればいいのか?」といった質問に対して、李承憲氏は逆にこう尋ねるといいます。「何のために悟ろうとされているのですか?」

李承憲氏によると、「何のためか?」という質問に答えられてこそ、悟りについて語り合う意味があります。何かを買うにもそれが自分に必要なのかをまず判断しなければならないのと同じです。「物欲や支配欲、名誉欲などのエゴを満たしたいのであれば、悟りは何の役にも立たない」と李承憲氏は言います。

悟りの目的は、ずばり、世界をより健康・幸せ・平和にすることです。健康・幸せ・平和を叶えようという願いは、すべての人の脳に基本的に入力されています。だから、誰でも悟ることができます。

李承憲氏も、悟るために死の危険を冒して修行をした時期がありました。そんな修行中のある日、とても強い覚醒状態で多次元の世界を経験したといいます。距離、速度、大きさの概念のあてはまらない新たな次元が限りなく寄せる波のように押し寄せてきて、脳が統合され、脳に感覚的、物理的な変化が起こったのです。悟りの体験です。

悟りを導く脳の「再編」の動きは、一つの問いかけから始まると李承憲氏は言います。その問いかけは、「私は誰なのか?」です。この問いかけこそが、脳を動かします。大事なことは、問いかけるのを止めないことです。そうすれば脳は否応なく方法を探し続け、最終的に統合する方法を自ら選択するようになります。

「調和と愛」こそが、真の欲求だ

一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は、人間を突き動かす行動原理として、3つの欲求をあげています。それは、「安定・安心を求める欲求」「人に認めてもらいたいという欲求」「他の人を思ったように動かしたいという欲求」です。多くの人の行動の大半は、この3つの欲求を満たすために行われていることが多いといいます。

しかし、実はこの3つの欲求よりも人間的な欲求があると、李承憲氏は言います。それは、「調和と愛に根をおろし、あらゆるものと一つにつながりたい」という欲求です。李承憲氏著『悟りの哲学』によると、その欲求は、私たちを一番人間らしく、また「神聖な存在」に導いてくれるものです。そもそも、私たちがこの世に生命を受けた理由は、この欲求を実現するためだと李承憲氏は言います。

「あらゆるものと一つになりたい」という欲求は、魂の深いところから湧き出ており、本能よりももっと深いところに隠されています。あらゆるものから解放され、ただ愛されているという感覚が、どれほど素晴らしいか考えたことがありますか。もしあるのなら、それは私たちの魂が、私たちには何が大事なのかを気づかせるために送ってくる合図です。私たちの人生には、熾烈な競争をして生き残るために争うことより、もっと素晴らしく美しいことがあるのです。

李承憲氏は、調和と愛の尊さに気づき、目覚めることは、すなわち「悟り」だといいます。そして、悟ることだけがこの魂の欲求を満足させる道なのです。

「人間愛・地球愛」こそが、ビジョンの基盤

脳教育者、一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏の脳教育では、「ビジョン」の大切さが強調されています。ビジョンとは「私たちの意識を覚醒させる灯」です。「ビジョンを設け、そのビジョンを実践することによって私たちの内部に気づきの光、生命の光が輝きだします」(李承憲氏の著書『セドナの夢』)

李承憲氏によると、ビジョンの中でも最高のものが、「人間愛・地球愛」です。それは悟った人が持ちうる唯一のビジョンです。どんな職業に就き、どんな立場から、どんな言葉で自分のビジョンを表現しようとも、「人間愛・地球愛」こそが、すべてに勝るのです。

人間愛・地球愛をビジョンとして掲げることは、困難をともなうこともあります。だから、人は気づきを避けようとします。怠惰や利己心で自分の気づきに蓋をしようとするのです。もともと悟りは自分の中にありますが、それを用いるか、そうでないかの違いでしかありません。

ビジョンを放棄すると、悲しみ、寂しさ、恐れ、怒り、憂欝さなどの感情が私たちの魂を侵すようになります。感情は、覚醒した人にも覚醒できていない人にも、同じように現れます。

重要なのは、感情をコントロールできるか、できないかです。車を運転する際、障害物は必ずありますが、その障害物をうまく避けて運転すれば、何の問題もありません。障害物がないことを願うのは間違っています。

悟りを得た瞬間、高速道路のように気持ちのいい道が続いて自分の前を走る車が1台もないことを望みますか? それは幻想にすぎません。感情を上手にコントロールできれば、感情に振り回されない創造的な日々を送ることができます。進んで自分の中に気づきのあることを認め、その気づきを使うことが大事なのです。

悟りとは、心の扉が開かれていること

一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は著書『セドナの夢』で、悟りとは簡単に言えば「開かれていること」だと説明しています。

「心の扉を開いてほかの人びとと相通じれば、それが悟りだ」と李承憲氏。心の扉は、だれでも、いつでも開けることができるようになっており、扉を開ければ、光が差しこんできて、内側と外側が相通じるようになります。

心の扉を閉じてしまうと、「自分」と「他人」が分かれてしまい、怨みを他人のせいにし、自分自身のことを正確に捉えられなくなると、李承憲氏は言います。しかし、扉が開かれていれば、問題の原因を、まずは自分の中から探しはじめます。

心の扉が開かれれば、対話と妥協によって問題を解決していけます。開かれれば、自分も相手も他人ではなく一つになるからです。一つになった状態では、相手に苦痛を与えると自分も苦痛を感じるので、人をむやみに傷つけたりすることができません。

悟った人とは特別な人ではありません。開かれている人なのです。