地球の未来のために

地球の未来を考えたとき、おそらく多くの方がまっさきに環境問題を思い浮べるでしょう。私たちが暮らしている家が汚染されれば、その中で生きていく人も健康ではいられなくなるのは、当然のことです

いまや環境問題は、私たちの生存と直結する切実な問題です。無分別に消費してまだ使えるものをゴミとして捨て、一方ではそれを処理するのに頭を悩ませる、というパターンに陥っており、これが地球の未来を脅かしています。物質面での発達スピードに人間の精神が追いついておらず、地球だけでなく、人間自体も行き詰まった状態になっています。

人間は地球から最も多くの恵みを受け取っている存在です。にもかかわらず、これまで人間には地球にとって何の力にもなれませんでした。私たちはこれに対する責任を逃れることはできません。地球の汚染源とも言える人間が変わらなければならないのです。

人生の目的が変わらないといけません。目的に従ってすべての行動が起こります。現在の教育は一生懸命勉強して、いい大学に行って、いい職を得て、お金をたくさん稼いで、人よりも多くのものを所有し、たくさん消費するのが幸せだという情報を注入されています。現代社会における成功のシンボルを3つ挙げるなら、金、名誉、権力ではありませんか?

資本主義が作った、このような成功中心の価値観では環境問題も解決できません。金、名誉、権力も必要ですが、それよりもまず人格、利己的ではなく公的、全体のための精神が必要です。それが弘益精神です。多くの人が弘益精神を掲げてより高い次元の価値、すなわち「人格完成」のための人生を生きていくとき、根本的な変化が起こると思います。

日常生活の中の悟り

脳教育者、一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は「悟りは選択である」と言います。この言葉には、悟りが厳しい修行の末に獲得するような特別なものではなく、ふだんの日常生活の中で訓練を重ねて到達できる現実的なゴールだという意味が込められています。

霊的な修練を積むために、あるいは瞑想をするために深い山のなかに入る必要ありません。確かに、ヨガ修行者や僧侶、または少数の平凡な人々のなかには禁欲的生活と苦行を積んで、最後に悟りに至ることもありますが、多くの現代人はこうした生活ができるわけではありません。

李承憲氏によると、大事なことは日常の中でも実践できる魂の鍛錬を通して、人生の究極的な問いに対する答えを探すことです。脳教育は、すべての人が悟りに至れるようにするための方法です。人類が最高の知識を得て、至高の文明を築いたとしても、大脳皮質の領域だけでは完成できません。理性と論理だけでは限界があるのです。脳幹の力を強化させることが唯一のカギであり、解決方法なのです。

李承憲氏は「人間の魂に完全なる変化をもたらす道は、悟りが大衆化し、常識になる道しかない」と言います。わずか数人が悟りに至ったとしても、社会全体が悟らなければこの世の中は変わりません。真の愛を回復した個人が集まり、悟りの文化が世界を変えるくらいの力を形成した時にこそ、人類はまばゆいほどの意識の進化を遂げるのです。

経験の主体とは

森の中で木が倒れて、その時にだれもその音を聞く人がいなければ、音は鳴るのでしょうか。だれしも「もちろん、鳴るにきまっている」と答えるでしょう。

しかし、私たちが音と認識するものは実際には空中のパルスであり、倒れる木の場合は土壌に激しくぶつかる木の幹によって生じる空気の急激な振動です。パルスが20~2万分の1秒(20~2万ヘルツ)だった場合、私たちの耳の神経は刺激を受け、その信号が脳に達した時、私たちは振動を音として経験します。

しかし、振動がその周波数より小さいか、大きかったら、空気を振動させることに変わりはなくとも、音を聞く経験は生じません。

つまり、音を認識する経験を生み出すためには、耳と脳を持っている人の存在が不可欠だということです。木が森の中で倒れても、周波数を受ける側がいなければ、その木は単にパルスを発信するだけということになります。

仏陀をはじめ多くの偉人たちは、音を聞いたり、物を見たり、味わったり、匂ったり、感じるのは、「意識」だと指摘しました。意識があってこそ、経験が生まれるということです。インドの哲学は、人間の経験の主体となる見えない存在のことを「体内に暮らす人」と呼んでいます。

意識は、人間のあらゆる経験に共通する要素です。起こった出来事自体が経験をつくるのでなく、意識がすべての現象を経験に変えるのです。

意識あってこその経験

私は米国アリゾナ州北部の小さな町、セドナに住んでいます。セドナは太古からそびえ立つ赤岩の群れの神秘的な美しさで良く知られていますが、中でも際立って美しい光景の一つが、砂漠に落ちる夕日です。夕暮れどきになると、青や榿、深紅、紫といった組み合わせが、言葉にできないほどの色の広がりを生み出します。

セドナの夕日を荘厳なものにしているのは、人間です。夕日を見るひとりひとりの意識が、比類ないほどの力強い光景にしているのです。

人の意識は、すべての現象に意味を与えます。私たちが日々味わう「経験」も、意識がもたらすものです。経験とはその瞬間に存在する全ての要素が人の知覚に及ぼす影響の総和であり、意識の覚醒のレベルによって、経験することの深さは異なります。

経験を通して受ける印象も、そこに存在するあらゆる物が与える印象を総体化したものになります。現代哲学では、これを「クオリア」と呼んでいます。言語や概念、デジタル化された情報とは異なり、経験のクオリアは複製できません。唯一無二です。

真の経験は、知識や分析、解釈を越えて、今を生きる瞬間、あらゆるものと共存することから生まれてきます。経験の世界においては、人とそれ以外の物との間に区別はありません。区別を感じているならば、それは現在にいるのではなく、名称や概念の世界に入ったということになります。

「同一性」という認識を抱く

エネルギーと意識は同一であり、それが私たちの実体です。自分たちが出会うあらゆる人、あらゆるものには、同一性があります。

この同一性は、神聖な創造力であり、宇宙の生命力です。この同一性が、すべてに息づいていることを知ることで、私たちはあらゆる人、あらゆる物に対して「慈愛」や「慈悲」を抱くようになります。

慈悲というのは哀れみとは異なります。哀れみは「自分はほかの人よりましだ」という差異の考えに基づいています。一方、慈悲は「あなたは私だから、私はあなたが感じることを感じることができる」という認識に基づいています。

他人に対しての行動においても、究極的に一つであることを認識すれば、他人を傷つけようという意図はなくなるでしょう。同一性を認識した時点から、他者や他の生命体に対する私たちの態度は、相手に利益をもたらそうとするものになります。

同一性を認識したとしても、私たちには依然、営むべき個人生活があります。人は自分がお腹を空かしている時に、他人に食べ物を与えようとはしません。どれほど愛情を感じていたとしても、人はガラガラヘビとキスすることも、サボテンを抱きしめることもしません。

しかし同時に、私たちはこうした外見上の分別が機能的なものに過ぎず、根本的なものでないこともわかっています。私はこの外見上の分別を「機能的エゴ」と呼んでいます。機能的エゴを残しながら究極的な共通性の認識を持つことはできるでしょうか? 私は可能だと信じています。

見える世界がすべてではない

好奇心は人間の性質の一部です。人は疑問を抱き、物事について、例えばどのように動くのか、どこからくるのか、知りたいと思っています。この好奇心と疑問の行き着く先は、自分が今あること、そして宇宙の存在の原点を知ることです。自分は誰なのか? どうしてここにいるのか?なぜ無数の星が存在するようになり、キラキラと輝くようになったのか、空はどこまで続いていて、その終わりの向こうには何があるのか――。これらは文明が幕開けて以来、何世代もの人々が抱えてきた疑問でもあります。

こうした本質的な疑問にこたえるためには、まず「見える世界がすべてではない」ことを知らなければなりません。「二重スリット実験」というのをご存じでしょうか?科学者が二本線の隙間から光を通したところ、その先のスクリーンに、二本線でなく縞模様が映し出されました。

研究者ははじめこの事実を信じることができず、計測に問題があったのだと思い、実験を繰り返しました。しかし、結果は同じでした。科学者たちの結論は、量子には意識による観察を通じてのみ現れる、確率波という物理的現実が存在する、ということです。

量子物理学のこうした理論は、人間のような大きな物体にも当てはまります。つまり、観察者は目を持っている必要はなく、「意識」がより重要だということです。目でなく、意識による観察が、答えを導き出すカギになります。

変化をもたらす「内なる不変」

あなたは「変化」についてどう思いますか?
変化が好きですか、それとも、嫌いですか?
変化が起きるとき、ワクワクしますか?怖いと感じますか?

人間には、安全と安心を求める本能があります。変化には常に危険が伴い、今あるものを失う可能性があるため、防衛本能として、多くの人は変化を遠ざけようとします。変化に抵抗を感じ、必要な改革に手をつけるのを躊躇するのです。

しかし、現代ほど変化が求められている時代はありません。環境汚染やテロ、紛争、貧困といった地球の現状を見ればそれは明らかでしょう。思想、行動、習慣、ライフスタイル、文化、制度。すべてにおいて深く大胆な転換がなされなくてはなりません。

大胆な変化のカギはなんでしょうか?
どうすればこれらの変革を起こすことができるのでしょうか?

それは、自分が一体誰なのかを知ることから始まります。私たちの「不変」の性質を知ることによって、変化が得られます。

私たちの行動は私たちの信念に裏打ちされたものです。その信念によって物事がどういうものか、何が可能か、どの程度の規模で可能かという私たちの考えが決定づけられます。

多くの人は今日、自分たちが世界において他の存在とは別個の単独の存在と信じていますが、この信念に疑問を持つことから、自分たちがいったい誰なのかを見つける旅が始まります。

この旅を通じて私たちは、自分たちが求め、夢見る変化だけでなく、個人として、そして人類としての私たちの「内なる不変」を見つけることができます。その不変こそが、変革に必要な勇気と力、知恵を与えてくれます。

「無常」を受け入れる

変化は自然の根本的な性質です。もし変わらないものが一つあるとすれば、すべては変わるという事実です。仙道ではこれを「無常」と言います。

私たちの苦しみは、永久的ではない物を永久的に所持したいと思う固執の感情からきます。人は、自分の人生だけは、無常の法則の例外になることを望むものです。自分が他者とは別個に存在する固有の実体という考えを捨てるのは容易ではありません。

でも、次のことを考えてみてください。次の二つの文章のどちらが事実でしょうか。

「私は生命を所有している」
「生命が私を所有している」

私たちはまるで自分の生命を所有しているかのように考え、行動しています。
しかし、考えてみてください。
生命は私たち自身が生み出したものでしょうか?
あなたの元にだれかがきて、生まれるための許可や同意を求めたでしょうか?
違いますよね。
あなたはただ、生まれたのです。
生まれた時、生命はそこにあったのです。

終わりはどうでしょうか?
生命は尽きる前に、誰かを送りこんで、あなたの許可や同意を求めるでしょうか?
いいえ、許可や同意どころか、何の知らせも、手がかりも与えてくれることなく、生命は消えます。

あなたの許可も同意もなくやってきて、知らせもなく消えてしまうものを、どうして自分のものと言えるのでしょうか?

生命はあなたが生み出したものではありません。生命があなたを生み出したのです。生命自体の視点からすれば、それはすべて単なる変化であり、「生まれる」こともなければ、「死ぬ」こともありません。

この事実を理解することが、「無常」を受け入れることであり、悟りの本当の始まりになります。

「エゴの目」から「道の目」へ

「あなたは、楽観的ですか、それとも悲観的ですか?」。もし両方だと思うなら、別の尋ね方をさせて下さい。「デフォルト・モード(規定値)はどちらでしょうか?」。

いま、家の外から聞いたことのない大きな物音がしたとします。あなたが最初に思いつくのはどのようなことでしょうか?その物音は、空からお金の入ったカバンが落ちてきた音かもしれません。しかし、普通はそのような楽天的な見方はしないでしょう。

これが脳のデフォルト・モードです。心理学では「負のバイアス」として知られています。警戒の状態であり、悲観的な予測の一種です。人間に組み込まれたこの反応は決して悪いものではなく、人類は自分たちの生存を脅かす物事(ストレス)に対して自分たちを守ることを進化の過程で学んできました。

脳がいったんストレス反応モードになると、その人の関心はいかに生き残るか、勝つか、「相手」を倒すかということに集中します。このモードにおいては、私たちは皆それぞれ、異なる存在であり、他者(自分以外の世界)は潜在的脅威です。よって、彼らを倒すためには彼らより強くならなくてはなりません。

しかし、世界中でさまざまな問題が起こっている現状を目撃している私たちは、この見方が正しく妥当なものであるかを再検討しなければなりません。

相互に敵視し、脅威である別個の存在の集まりとして世界を見る目から、全体の中で分かち難くつながった存在のネットワークとして世界を見る目への転換が必要になっています。私はこれを、エゴの目から「道」(TAO)の目への転換と呼んでいます。

全てはつながっており、別個の存在というのは幻想です。私たちはバラバラの存在ではなく、全体として進化しながら生きているのです。

速度を落として、方向を見直そう

現在の文明が幕開けて以来、人類は物質文明の発展の道を進んできました。最初は歩いていましたが、間もなく走り出しました。走者は時代に応じて変わりましたが、走る方向は変わらないまま、走り続けています。

産業と技術、文明の発展のスピードはどんどん速まり、私たちは当然のごとく列車に乗ったままです。しかしそれは、正しい方向に向かっていると確信しているからではなく、ほかに行くべき道がないように見えるからです。

だれもが不安を感じ始めています。「自分たちが乗っている列車に運転手がいないなんてことはあるだろうか」と。列車の窓から見える景色はますます荒涼としてきており、列車の速度は速くなるばかり。このままでは山に衝突するか、崖から転落するのではないかという恐れが広がっています。

列車はすぐに止まることはできません。手遅れにならないうちに、私たちはスピードを落とし、自分たちの現在の居場所と目的地を確認しなくてはなりません。

かつて老子は「方向を変えなければ、今向かっている場所で終わってしまうかもしれない」と言いました。その言葉に私は賛同します。私たちは、自分たちの優先事項を再評価し、新たな目標を掲げ、計画を立て、行動しなくてはならないのです。